なりたさまかく語りき

結局好きなこと書くのがいちばんよい。

【書評】生の短さについて(セネカ)

生の短さについて他二篇(セネカ 著)のうち第1篇である「パウリーヌに寄せる 生の短さについて」を読んだので感想を残しておく。

 

 

本全体としては訳者まえがきとあとがきを併せて316ページ、しかもその内199ページからは解説なので、本編としては全体の半分もない。その内の3分の1を読み切った程度だが、著者の言う「閑暇の人(かんかのひと)」に対する思いの圧が凄すぎて50ページ程度しかない文章の中でほぼ全ページ名言だった。

これは読んですぐ記録に残しておかねば次章以降で記憶がどんどん上書きされ、ドッグイヤーが増えすぎて書き起こすのが大変になることが容易に想像できたのでこのタイミングで残す。

 

ちなみに演説風な文体なので、一文が長くてめちゃめちゃ読みにくい。読むのに体力が求められた。

名言

「生のごくわずかな部分に過ぎぬ、われらが生きているのは」

この言葉が全ての始まり。この言葉の意味について滔々と言葉を重ねているのがこの本。

いかにも、その他の期間は、生ではなく、ただの時間にすぎない。至る所、諸々の悪徳が四方を取り囲んで迫り、立ち上がることも、真実も見極めようと目を上げることさえ許さず、欲望に溺れさせ、欲望に執着させて圧倒する。もはや彼らにには自己に立ち返ることが決してできない。

〜中略〜

誰もが他人の誰かのために自らを費消しているのである。

要は、他人に振り回されて本当の意味で自分のために使う時間が全然ない人ばっかりだ、と言ってる。

 

多くの人間がこう語るのを耳にするであろう、「五十歳になったとは閑居し、六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。だが、いったい、その年齢より長生きすることを請け負ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。事が自分の割り振りどおりに運ぶことを、そもそも誰が許してくれるというのか。生の残り物を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養(かんよう)のための時間として予約しておくことを恥ずかしいとは思わないのであろうか。生を終えねばならないときに至って生を始めようとは、何と遅蒔きなこと。わずかな人間しか達しない五十歳や六十歳などという年齢になるまで健全な計画を先延ばしにし、その歳になってやっと生を始めようと思うとは、死すべき身であることを失念した、何と愚かな忘れやすさであろう。

ご老人に一切容赦しない男セネカ。流石に切り出してくる範囲が長すぎると思ったけどこのパラグラフ全部名言なんだもん。寿命が現代とは違う前提があっての言葉ではあるけど、現代でも定年後は〜とか言ってる人に同じ返しをしても響くでしょう。

 

君たちの生は、たとえそれが千年以上続くとしても、必ずやきわめてわずかな時間に短縮されるに違いない。

〜中略〜

君たちはそれをつかまえようとも、引きとめようともせず、「時」という、万物の中で最も足早に過ぎ去るものの歩みを遅らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手にいれることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許しているからである。

強い言葉を使うなよ。泣いちゃうだろ。

 

要するに、何かに忙殺される人間には何事も立派に遂行できないという事実は、誰しも認めるところなのである。
〜中略〜

諸々の事柄に関心を奪われて散漫になった精神は、何事も心の深くには受け入れられず、いわばむりやり口に押し込まれた食べ物のように吐き戻してしまうからである。

もうちょっと、こう、手心というか。

 

他の技芸の教師なら、ざらにおり、数も多い。

〜中略〜

だが、生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こういえばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。

君たちはどう生きるかが問われているばかりか、どう死ぬかまでをも問うている。

 

誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先へ先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。だが、時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理するものは、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

要は、1分1秒を大切に、世の中のイキリビジネス本がうわごとのように書いてる内容だけど、古代ローマの詩人が語る言葉は圧が違う。

 

時間というものがいかに大切なものかが彼らにはまったく分かっていないと考える理由はない。自分がこよなく愛する人たちに向かって、彼らはよくこう語るではないか、自分の生の歳月の一部を捧げる用意がある、と。彼らはそれを捧げるが、自分がしていることの自覚はない。捧げるものとはいえ、自分の歳月を減少させ、しかも相手の歳月が増加するわけではないのである。

愛の言葉にまで切り込んできたぞこいつ。ロマンも何もない。エドウィンリィへの告白*1は何の意味もねえぞって言っちゃった。

 

来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。

かっこ良。

 

「諸々の情念の衝動に対抗するには、繊細さではなく激烈さで、微笑を与えるのではなく突撃による正面突破で戦わなければならない。なぜなら、<悪徳は>罵っているだけでは済まされず、根絶しなければならないからである」

哲学者ファビアーヌスの言葉の引用。強い言葉すぎる。

 

過去という、われわれ人間に与えられた時間のこの部分は、神聖にして聖別されたものであり、すべての人事を超越し、運命の支配権の及ぶ圏外に置かれ、欠乏にも、恐怖にも、疾病の襲撃にも脅かされることのない時間である。過去は掻き乱すことも、奪うこともできない。それは永遠で不安のない所有物なのである。今ある現在は一日一日を言い、その一日も刹那の一瞬から成る。しかし、過去の日々は、どの日でも、命じれば眼前に到来し、思うがままに、覗き見ることも、とどめることも可能である。

「過去は変えられない」を言ってるだけなのにこの言葉の圧。過去が神聖で聖別された時間などと考えたことはなかった。

 

要するに、君が知りたいのは、何かに忙殺される人間の生きる生がどれほど短いか、ということであろう。人々がどれほど長寿を切望するか、見てみると良い。おいさらばえた老人が、わずか数年の延命さえ願かけをして乞い求める。自分は歳よりも若いと偽り、虚妄の年齢で自己満足し、同時に運命をも欺いているかのような喜びようで自己欺瞞を続けるのである。

そうはなりたくないものだ。ふん 「老い」すら楽しむものさ 我々英国人(ジョンブル)は。*2

 

彼らはそうしたことで優雅だとか垢抜けしているといった評判を得ようとするのであるが、あまりに度が過ぎているために、身についた悪癖があらゆる私的な生活にまでついてまわり、飲むにしろ、食べるにしろ、人に見せびらかさずにはいられないのである。

インスタバエのことを言ってると思われる。

 

閑暇の人とは、自分が閑暇を享受しているという自覚を有する人のことなのである。自分の体の状態を知るのに、それを示してくれる他人を必要とするような半死人が、いかにして自分の時間の主人でありえよう。

この文章の前段には、身の回りのことを全て人に任せてすぎて、冗談で「私は今座っているか?」と使用人に問う贅沢貴族への批判が滔々と語られている。そんな奴を閑暇の人、つまり「良い生を生きている人」と読んでいいわけねえだろクソボケがよお、って書いてるわけだけどいくら何でも喧嘩腰すぎではないかというか。怒りが滲み出ている。

 

これほどの出費をしてまで購う(あがなう)愛しい夜が、彼らにとってあまりに短すぎると思われるのも当然ではないか。彼らは夜の待ち遠しさで昼を失い、後朝(きぬぎぬ)の恐れで夜を失うのである。

あまりにも詩人がすぎる。「出費」とはくだらない見世物や娼婦を買うことのことを指している。

 

偶然にやってきたものは全て不安定なものであり、高く登れば登るほど、それだけ転落の危険は高くなる。さらに、転落し、崩壊する定めにあるものを喜ぶ者は一人もいない。したがって、所有するにはなおさら大いなる労苦が必要なものを大いなる労苦をもって手に入れようとする者たちの生が、きわめて短いだけではなく、きわめて惨めなものであるのは必然なのである。

頑張って偉くなっても大変なだけだというあまりにも悲しい示唆。

 

君の人生の大半が、いや、少なくともその最良の時期が国家に捧げられた。君のその時間の幾許かを君自身のためにも使いたまえ。

副題にもある「パウリーヌス」に宛てた言葉。今までプライベートも忙しくしてたし。お仕事も頑張ってきたしもういいじゃん、FIREしちゃいなよ。

もっとも、ものぐさな、あるいは懶惰(らんだ)な閑居の生活に入り、そうして君のその生来の溌剌とした活力を惰眠と、俗衆の好む快楽に溺れさせろ、と言うのではない。そのようなものは閑居ではない。君がこれまで骨身を惜しまず励んできたどの仕事よりも大事な仕事、職務から解放された穏やかな日々のうちに君がなすべき大事な仕事を君は見出すであろう。

だからってニートになってyoutubeばっか見てていいってことじゃないからな、仕事から離れてやるべきことちゃんと見つけろよ、ってことですね。

 

自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分のものであるかを考えてみれば良いのである。

俺の人生、残りのどれくらいが本当に俺自身のためだけに使える人生なんだろうか。

 

総評

というわけで、生の短さについて でした。総評と書いてるのに締めの言葉を書いて終わりにしたくなるくらい疲れた。最近は身内に自分の時間を吸われることが多くて参ってしまうことが多く、自分の生の肯定のため、どうすべきか考えていた。身内ってなかなか「切り捨てる」ってことができないけど、それでもやっぱり俺は俺の人生を良いものにしたいので醴(あまざけ)のようにベタベタした付き合いはしないと読んで誓った。*3

なお、徹底的に閑暇でないものに対する批判を書き連ねたセネカだけど、では何をすればいいか、についてはこう書いている。

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。

哲学は好きだけど、哲学の勉強をしているから閑暇の人ということにはならない。ニーチェとかの思想と併せて考えれば、芸術や職人の領域だと思う。なれるだろうか、閑暇の人に。

*1:ハガレンです

*2:ヘルシング

*3:醴と水の対比は老子の思想から